平電機株式会社では電気・電子機器の電気接点の製作・加工をしております。
当社の複合接点であるTCIコンタクトやその製作・加工プラント・アッセンブリー加工システムなどは日本の様々なメーカーで採用されております。
高性能・低コストの電気接点製造ならお任せ下さい。また小ロットもご相談下さい。

電気接点の製造加工メーカー 電気接点の製造加工メーカー 平電機株式会社

求人情報お問い合わせフォーム
電話でのお問い合わせ055-986-9826

(営業時間8:00〜17:00 土日祭日休業)

トップページ>新着情報
ホームへ戻る
平電機新聞
≪前のページ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 次のページ≫


今月の平電機新聞では戦国時代で活躍した豊臣秀吉を支えた武将「石田三成」について書いてみたいと思います。

「勝てば官軍負ければ賊軍」と言った言葉があるように石田三成はその後の覇者である徳川家康に戦いを挑んだので豊臣の奸臣(邪悪な家臣)や佞臣(媚びへつらう家臣)と言われてきましたが、実際はかなり優秀な人物だったようです。



石田三成の有名なエピソードに「三献茶」があります。あるとき木下藤吉郎(豊臣秀吉)が鷹狩の帰りに観音寺により、茶を所望すると温かいお茶が茶碗に8分ほど入って出てきた。喉が渇いていた秀吉が一気に飲み干しお代わりをすると今度はさっきより熱いお茶が茶碗に半分ほど入って出てきた。

興味を持った秀吉がもう一杯茶を所望すると今度は熱いお茶が小さい茶碗に入って出てきた。理由を茶を運んできた寺小姓に聞くと喉が渇いた時は熱いお茶は飲めないので温いお茶を沢山だし、喉が潤ったところで茶の味を味わってもらうために熱いお茶を出したと答えた。この寺小姓の気遣いを気に入り秀吉が家臣にした。これが後の石田三成だったと言ったエピソードが「三献茶」ですが、真偽はさておき石田三成が聡明だったことは誰もが認めていることです。

雑誌「一個人」で江宮隆之氏の記事では石田光成は「義」の人だと書いています。豊臣秀吉への忠義があり親友である直江兼続や大谷吉継へは信義があり、統治していた領民には仁義があったと言います。

豊臣秀吉への忠義は秀吉死後の関ヶ原の合戦でもわかりますが、秀吉が天下を取る前からの活躍はあまり知られていません。

織田信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉は毛利と素早く休戦した後あっという間に明智光秀を打ちます。属に言う「中国大返し」です。この時秀吉の行動から後方支援は実戦以上に大事だと学んだ石田三成は、後に秀吉が織田家筆頭家老であった柴田勝家と戦う時の食糧、武器の調達や上杉景勝との同盟交渉などを担当し秀吉を天下人へと押し上げます。これは石田三成がこの戦国時代を豊臣秀吉によって泰平にしたいと願ったからにほかなりません。

三成の旗印は「大一大万大吉」と言い、天下の下、一人が万人の為、万人が一人の為に尽くせば必ず天下太平の世が来ると言った願いが込められているそうです。



三成の手腕は「太閤検地」にも発揮されます。当時の税金は米で徴収していましたが、地方ごとに土地を測る単位が違かったり、お米を測る升が違かったりで税金の徴収は不公平を極めていました。そこで全国統一の検知尺と検知升によって検地したところ600万石UPしたのです。人の解釈により太閤検地は善とも悪とも言われていますが、公正公平な光成の性格が伺えます。

公正公平な性格の友人である直江兼続とは上記の上杉家との同盟の時に親交を深め義兄弟とまでなっています。秀吉の死後徳川家康が上杉家に難癖をつけ戦争を仕掛けました。上杉家の家臣である直江兼続は家康への詰問状をことごとく反駁した「直江状」を家康にたたきつけたと言われています。このときも光成は兼続への信義のため、秀吉への忠義のために挙兵し戦いました。

統治していた佐和山城下の人々には仁を持って接しました。領主としての論理では領民の暮らしやすい統治を行い、租税、訴訟、夫役は掟書をつくりそれに基づき公正公平に行いました。飢饉の時は米を領民に与えたりしていたので、それに恩義を感じていた人々は関ヶ原で光秀が敗れたのちも匿ったと言われています。光秀死後も佐和山の住民は地蔵を築くなどして霊を慰めたと言われています。



石田光秀からどのようなことを我々は学ぶことができるでしょうか?自分の信念を貫き、義を重んじ、公正公平に生きることは今の世の中でも容易ではありません。石田三成が加藤清正らから嫌われていたように敵を作ることになるかもしれません。しかし必ず評価してくれる人々はいます。会社として、一個人として石田三成の生き様から少しでも学べたらと思っています。




この記事にコメント:

お名前(必須)

メールまたはWebサイト

情報を記憶しておく




年末になり寒い季節になりました。外も寒いが景気も寒いと良く耳にしますが、日本はいつからこのような状態になってしまったのでしょうか?日本経済は再生できるのでしょうか?そんなことを考えている時にNHKの「メイド イン ジャパン 逆襲のシナリオ」と言う2夜連続のテレビ番組を見ましたので、今月の平電機新聞はこの番組について書いてみたいと思います。



既にご覧になった方は内容はお分かりだと思いますが、録画していたこの番組を最近みた私には少なからずショックでした。まずは日本の製造業の人口が激減しているのです。1991年に1,532万人いた日本の製造業で働いている人が今は1,019万人まで減っています。約20年で三分の一まで減ってしまったわけです。

その分サービス業の人口が増えているわけですが、実は従業員一人当たりのGDPで計算しますと製造業が916万9,000円に対しサービス業は約半分の468万8,000円しかありません。つまりサービス業ばかり増えると日本の国力(GDP)が減る一方なのです。なぜこのようになってしまったのか?それは日本企業の戦略がうまくいかなかった事が原因です。

例えばSONYのウォークマンがアップル社のiPodになれなかったのも戦略として失敗した一例です。実はiPodが発売される2001年の2年前にSONYも同じようなシステムをメモリースティックウォークマンと言う形で世に出しています。

ウォークマンを購入した人は音楽をインターネットで購入しそれをウォークマンに転送して聞くことが出来るシステムは今のiPodと同じように思います。何が違ったのか?それはSONYは自社グループで音楽関連の会社を持っていますので、その音楽に所属しているアーティスト中心に曲を売ろうとしました。また、違法ダウンロードを恐れて著作権侵害防止機能を複雑にしたせいで一般消費者から使い勝手が悪いと敬遠されたのです。

デジタル化でも出遅れました。SONYは小さく精密な部品を製造することに長けていました。その利点を生かしてウォークマンを製造したのですが、iPodには駆動系のメカ(小さな精密な部品)は使用されておりません。半導体のチップとバッテリーで構想されています。半導体1個なら自社工場もいらないのでアップル社は自社工場が必要ありません。自社工場を持っているSONYに比べコストで優位性があったのです。




時代も日本企業に厳しかったのも事実です。2001年頃は日本の銀行が吸収合併され経済がメチャクチャな時代でした。日立で1万4,700人、東芝1万8,800人、パナソニックで8,000人、富士通で1万6,400人、NECで6,000人と大リストラの嵐が吹き荒れました。問題はこの時に大量のすばらしい技術者が早期退職で辞めてしまったことです。この早期退職した優秀な人材は中国、韓国、台湾に行ってしまい。今の日本企業をさらに厳しい立場に追いやったのです。




では、どうしたら良いのか?それは中国の大手家電メーカーのハイアールの経営方針にあると私は思います。三洋が家電から撤退したときにハイアールは三洋のタイ工場をそのまま買収しました。日本の三洋からタイ工場を任せられていた日本人を含む従業員がそのままハイアールの参加に入ったのです。三洋時代、タイ工場は赤字続きでしたが、ハイアールの参加になってからは黒字になりました。従業員数も設備も同じなのになぜでしょうか?

それはハイアールの会長の張瑞敏の経営方針にあります。「全ての消費者に対して一人一人が経営者の心構えを持ち行動せよ」と張氏は言います。三洋時代に工場長として赴任してきた日本人の方が言っていました。ハイアールでは製造する人間にも売り上げを上げるように求められるそうです。三洋時代は工場は物を作るだけ、売上は営業の仕事と分けていたそうですが、会社の経緯者ならどうやったら会社が黒字になるかを真剣に考えるはずです。ハイアールはそれを働いている人、一人一人に求めたのです。つまり意識改革により黒字化を達成したのです。



日本大手企業が赤字続きだと報道されます。我々中小企業はさらに厳しい状況に立たされています。日本のモノづくりが再興するには働いる一人一人の意識改革が重要ではないでしょうか?



この記事にコメント:

お名前(必須)

メールまたはWebサイト

情報を記憶しておく




最近のニュースでは消費税が上がる事が確実となりました。近年の世界同時株安などの不景気に加え、一向に改善されない円高、どんなに節電しても上がっていく電気代など、この先日本はどうなるんだと言う不安なニュースが多い今日この頃です。

そんな中、この前本屋で「日本人だけが知らない 世界から絶賛される日本人」と言う本を購入し読みましたので、今月の平電機新聞は日本の魅力を見直すべく、凄い日本人について書いてみたいと思います。



皆さん、ヘレン・ケラーはご存知ですね。自らも重い障害を持ちながら障害者の教育や差別撤廃の運動をした社会福祉事業家です。では橘 保己一(たちばな ほきいち)と言う方はご存知でしょうか?実は橘 保己一は1746年生まれの江戸の国学者で、ヘレン・ケラーが人生の目標とした人だそうです。橘氏も盲目だったため、昔の日本ですから、それこそなれる職業が決まってしまいます。橘氏も始めは按摩や針などの道に進みますが本人は学問がしたく、苦労の末、国学者となります。おもな業績は散逸の恐れがある貴重な文献をまとめる仕事をし、その事業を和学講談所と言う施設をつくり弟子たちに引き継がせました。今では和学講談所は東京大学資料編纂所に名を変えて現存しています。橘氏によって後世に残された文献は多数にのぼると言われています。

ヘレン・ケラーはその話を実の母から「日本には盲目だけど偉い学者さんになった橘 保己一と言う人がいる。」と聞き、人生の目標としたそうです。実際ヘレン・ケラーが日本に来たときには橘氏の出身地である埼玉県を是非見たいと訪問し演説を行ったそうです。日本では無名ですが凄い日本人ですね。



樋口 季一郎と言う人も日本では無名ではないでしょうか?では「シンドラーのリスト」と言う映画になったオスカー・シンドラーは知っていますか?と言えば映画で有名になったので知っている人は多いと思います。

この樋口氏はオスカー・シンドラーと同じようにユダヤ人をナチスから救ったと言われています。当時満州国に勤務していた樋口はソ連から逃れてきたユダヤ人にビザを発給することにより2万人以上のユダヤ人を救出したと言われています。その功績からユダヤ人の国であるイスラエルで建国功労者として名前を連ねているそうです。イスラエルでは知っているけど日本では無名な凄い日本人です。

日本と言えば今も昔もモノづくりに長けていると思いますので、モノづくりの凄い日本人をご紹介しましょう。



屋井 先蔵と言う人は知らないと思いますが、屋井氏が作った物は去年の震災の後品薄になりました。それは乾電池です。この屋井氏の経歴が面白く、実は大学受験に2回失敗し、時計職人となったそうです。その職工時代に乾電池を発明するのですが、お金がなく特許が出せなかったそうです。では、乾電池の発明ですぐに儲かったかと言うと、当時の日本人は乾電池の価値がわからず全く売れなかったそうです。それがあるとき海外の国際博覧会に出展された地震計の電源に使われているのが海外に注目され、海外で人気になってから日本で売れ始めたそうです。



早川 徳治も同じような感じです。早川氏はシャープペンを実用化レベルまで改良した日本人です。当時のシャープペンは壊れやすくあまり人が使っていなかったそうです。それを真鍮を使うことで実用化し日本で販売しました。しかし当時の日本人には「和服に真鍮のペンは似合わない」など、受け入れてもらえず、結局海外で早川氏のシャープペンが有名になりその後日本で売れるようになったそうです。ちなみにこの早川氏が後にラジオ放送が日本で始まるからといち早く国産のラジオを開発し会社を起こしました。それが今のシャープだそうです。

その他この本には凄い日本人がたくさん書いてありますが、日本人には凄い日本人を過小評価する気質があるようです。モノづくりでも始め日本で販売したが売れず海外に出したらヒットし、日本へ逆輸入するようになった物は今でも沢山あります。今のように厳しい世の中を生き残るのは凄い日本人をちゃんと評価すると言った基礎的なことから変えていかないと日本の未来はないかもしれません。




この記事にコメント:

お名前(必須)

メールまたはWebサイト

情報を記憶しておく


平電機は日本の数々のメーカーに愛されています

平電機は商社ではなく、電気接点の製造メーカーです。材料から一貫して製作を行っているので低価格に抑えることができ小ロットから量産まで可能です。お急ぎの場合は、短納期で納品いたします。ご相談下さい。またメーカーならではのサポート、ご提案が可能です。

電気接点の事なら何でも
平電機株式会社にお任せください。




< 2017-08 >
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031